昭和50年1月19日 朝の御理解
中村良一
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
まめな時、ここへ参って信心のけいこをしておくと。そういう信心のけいこをしておくと、夜夜中、どういう様なことがないとも限らん。そういう時に、わが家でおかげの受けられるほどしの稽古じゃなからなければいけないということです。まめな時、ここへ参ってという、例えば、皆さんの場合がそうです。今日なんかは、随分、外は真っ白の様です、雪が降って、それを、危険をおかしてでも、寒中修行の御祈念に参拝される。いわゆる、まめな時、ここへ参って、信心のけいこをなさっておられる訳です。だからその、稽古の焦点ということがね、なからなきゃいけない。どういうことを稽古するか。今日、ご理解を頂いて、そして、その御理解を元にして、今日も一日過ごさせて頂こうとか。または、他に稽古の焦点をおいて、ただ、漠然と参って、天津祝詞を覚え、大祓いを覚えた。拝詞を覚えたと。まぁそれも、良いですけれども、やはり、それは、何処までも拝む稽古であって、信心のけいこにはならない。やっぱり、信心のけいこと言えば、今日、ここに教えてあります、夜夜中、いつどのような事が起きないとも限らない。おかげはわが家で受けられるほどしの信心とは、どういう信心を目指したら良いかと。今日は、大変難しい事の様ですけれども、実際は、そげん難しくはないということを聞いて頂こうと思うんですけえれどもね。
今日は、私は、自我滅却ということを頂いた。この自我の心と申しましょう。滅却するということは、それを無くすると。これは何か、偉いお坊さんの言葉に、それによく似たことばがありましたね。何とかを滅却すれば、火の中も、また涼しと。それから、大変な難しい事、同じような意味なんですけれども。大変な難しいことのようでありますけれども。一段一段、信心を進めて行くという、いうならば、稽古をね、させて頂きますと、私は、さほど難しい事じゃない。誰でもおかげが受けられる境地だと思うです。本能的に、お互いが、そういう自我というものを持っております。その自我が取れるところに、わが身は神徳の中に生かされてある喜びが分かってくるんです。
先日、高橋さんのお知り合いの方で、子供さんの難儀な問題で参ってみえた。兄弟二人で、看板屋をなさっておられる。それが、りゅう看板屋というのです。竜というのは、あの竜ですね、こう、あの竜なんです。だから、どうもこう言う難儀な不幸なことが起こってくるというのは、どうもその看板のね、看板屋、店の屋号がね、何か、いけんからだろうかと思います。だから他に、変えたらどうでしょうかとこう言う訳なんです。だから、それは良いですよ、ゴロもとにかく良いです。竜看板店て、とても良いですよと。そうでしょうかという訳です。例えばね、ほんなら、今、お宅で、それこそ難儀な問題が起きておる。もうそれこそ、親としては、目の前が真っ黒になるような感じがする。事実、そんな難儀な問題なんです。けれどもね、例えば、竜が昇天するということを申しましょうが。いわば、竜が、天に昇るという時には、雨があり、風があり、そして、真っ黒い雲が、降りてきた時が、竜が昇天する時だと言われておるのですから。今の難儀な問題と思うておられるそれがです。いよいよ、おかげの頂けれる、ここを、言うなら、有難く頂いて行けば、昇天にもなるほどしのおかげに、天にも昇るほどしのおかげになるんだという事になると、大体、竜ちはとても良いですよ。だから、今持っておられる、その難儀をね、今こそ、雨が風が吹いておる時だ、真っ黒い雲がおりてきた時だというふうに思われたらどうでしょうかと言うたら。それこそね、私が、ここで見とって、憑きものが落ちたように、はっとこう、息をついて、楽になられる状態を感じられました。もう先生、これで安心しましたち、はじめて参ってきた人が。
様々な、難儀な問題がありますよね、お互いが。その難儀な問題を、難儀な問題と見るところにです、人間の苦労があるのです。ところが、信心させて頂いて、段々、分からせて頂く、いわゆる肉眼をおいて、心眼を開かせて頂くおかげを頂いておりますとです。もうそれはもう、こよない昇天の機会だ、チャンスを頂いておる時になるんだという事になるんです。してみると、その真っ黒い雲にも、合掌して、お礼を言わなければならないほどしの事なのに、それこそ、夜も日も眠られん様な心配が続いておるという様な事ではね。だから、今のようなお話を、皆さんが、日々、聞いておられるし、また、様々な問題を通してです。はぁ親先生が、おおいうて頂いたから安心だと。そういう、言うなら、生き方を、段々、身につけて行くうちにです。これは、こげなことで心配しては馬鹿らしかとか。本当に、おかげをおかげと分からないところに、難儀苦労心配があるのだと。いや、心配の事じゃないのだ、かえって、お礼を申し上げることだというように、私は、分かって行くような信心を目指すことだと思うのです、信心とは。だからもう、本当、初めて参ってきた人でもです。そういう、そらまた、帰られたら、合楽先生が、あげん言いなさったばってん、やっぱし、(?)に違いないです。けども、そん時だけなっとん、自分の気持ちがです。それこそ、憑いたもんが落ちたように、楽になられるという。そこに信心の楽しさがある、有難さがある訳です。
自我を滅却する。こらもう、なかなか、それは難しいことです。けれどもね、そのほんなら、一緒について見えとったおばさんでした。もう、五、六十になられるでしょうかね。いわば、その瞬時ではあるけれども、自我を滅却された訳です。しかも、そういう状態が、何時も頂けれる様な。わが身は神徳の中に生かされてある。そういう事が、段々、分かって参りますとです。言うならば、不安がなくなり、心配がなくなる。そういうおかげを目指しての信心でなからなければです。私は、わが家でおかげを受けよという様なことにはなってこない。ただ、まめな時に、ただ、一生懸命、参っておるだけではいけない。参っておる事も稽古の内でありましょうけれどもです。参ったら、何を、例えば、学校へ行ってもそうです。私の、友人に、今は大変儲け出しておられます方が居られます。漁師さんの息子さんでした。ところが、もう、頭はいたって悪い。国語の、例えば、勉強の時に、歴史の本どん出しとる。お前、何ば勉強するとかち。そのくらい分からない人でしたけれども。もう漁師という、川漁です、をする事に限ってはもう、それこそ名人です。それでもう、とてもおかげ頂いてですね。家も建てられた、その田地田畑も買う。今はもうそれを、もう漁は出来ん、筑後川が、あんなになりましたからね。けれどもその、それこそ、国語ば習う時に、歴史の本出したんじゃいかん訳です。勉強にならないです。だから、例えば、私共の、稽古をさせて頂く、その焦点というものがね、はっきりしてのことでなからなければいけません。
昨夜の、お月次祭にも申しました事でしたけど。今年という年は、いよいよ、神様が、合楽の信奉者の全部におかげを下さろうと、意気込んでござるような年が、それは、なぜ、そういう事かと言うとね。おかげをやらなきゃもう、神様の方がね、時期を失してはならないといった様な思いでおられる様な感じの年です。ですから、ほんなら、神様が、如何に下さろうとしても、こちらが、姿勢を作らなければいけないのです。だから、ほんなら、下さるならば頂こうと言うてです。それこそ、八つ手んごたる手ば、こうやって、お頂戴しただけじゃいかん訳です。頂ける心の状態になろうと、向きを変えなければいけないという事です。神様が下さるならと言うて、そのほんなら、こうお頂戴しただけではいけんのです。おかげの受けられる心の状態に向けなきゃ。例えば、今日、頂きますように、それは出来ません、なかなかいっぺんには出来ませんけれどもです。けども、難しいと言うとったら、何時までも出来ません。例えば、遊芸の稽古でも、三味線なら三味線の稽古をするでもです。それこそ、長唄なんかの稽古をする人達が、そんなに天才といった様な人ばっかりじゃありません。稽古をして覚え様と思えば、誰でも一通り覚えるです。けれども、聞いておって、ほらあの、聞くとは好き、ほんなら、自分も稽古して見ろうかと思うたらです。やはり、自分も稽古してみるとです、段々、それが弾きこなせれる様になるのです。もうああいう難しい何曲を、それこそ、楽しゅう、嬉しゅう弾いておれれる様なおかげが頂けるのと同じです。稽古事は同じこつ、みんな。信心もそうです。とても、自我を滅却てんなんてん、そげな、えらいボンさんにばしなるとわけじゃないのだからと言わずにね。本気で、そういう稽古の出来れる道があるならば、稽古をさせて頂こうという、まず、そういう気持ちにならなければいけません。出来る出来んは別としてです。そういう姿勢を取るという事がです。おかげの頂けれる事になると、私は思います。
まめな時、ここへ参って、信心のけいこをしておけと。だから、ほんなら、どういう信心を身につけるかと。まぁ今日の御理解を、教祖の言葉を借りると、肉眼をおいて心眼を開かせて貰うという事なんです。そこにはね、例えば、自分というものを出しては馬鹿らしいという事になってくるです。自分の思い、言うなら、我情があり、我欲があるところにです。難儀を感じなければなりません。それを捨てたら、何もかにも、捨ててしまわなければならんかと言うと、そうではなくて、そういう心の状態になるとです、そういう心の状態にならせて頂こうと、言うなら、信心の向きを変えただけでです。おかげは頂けるんです。現れて来るんです。それを、神様が、喜んで下さるからですね、やはり。そして、一段一段、信心を稽古させて頂いて、わが身は神徳の中に生かされてあるという喜びに浸らせて頂く生活。そういう生活を、自我を滅却した人の生活だというふうに思います。
そこで思うのですけれども、朝、早起きをする事がしるしい。例えば、私の方の子供達が、一番前にこう黒衣を着て座っておる。そこで、修行生の方達は、一生懸命、大祓いを上げよるけども、幹三郎と光昭だけは、ちゃんと、頭をうっ付けちから、眠ってしまっておる。だからもう、そら本当に、であっては、しるしかろうと思います。眠うして応えん、それと言うて、寝に行くにいかん。それでもう、皆さん、一生懸命、大祓いを上げて、いわば、修行なさっておられるのに、自分達は、頭うっ付けてちゃんと寝ておる。だから、そういう、例えば、修行ですから、それも尊いです。若い、言うなら、眠い盛りですから、それも本当に、そうもあろうと思うです。私と一緒に、三時半に起きて、出て来ますからね。だからもう、ちょうどここで、一時間たち、二時間目に入るぐらいなると、こうして暖房もきいとるしね。やっぱ、その、眠うなるのも、もっともです。けれども、それではね、本当に、それこそ、昨日、若先生が言葉じゃないけれどもね。親教会に修行中に御祈念をさせて貰った、朝の御祈念を。おそらく眠かって、おそらく、御神前で眠っとったんじゃないでしょうか。そして、御結界について、開口一番言うた事が、金光様の信心とは、眠たいもんだと言うたという。だから、本当に私、それを聞いて、尊い事だなと思いました。ですから、ほんなら、今、彼達も、そういう尊い所を通っておるんですけれども。だから、そういう、しるしい信心が、何時までも続いてはならない。
末永先生が、それこそ、八年ぶりに、四時の御祈念の、一時間のあの、親先生の御祈念が有難うなったというようにです。有難うなってこそ、言うならば、楽しいのです。ですから、そこにはね、やはり、色々と工夫が凝らされなければいけないと思うです。もう、眠うして応えんなりに、今日は、どげなご理解頂いたじゃ分からんという様な事ではね。せっかくの、頂く御理解も、今日の御理解を元にしてと言うても、元にも出来ない訳なんです。それはね、様々な過程があっても良いのですけれどもです。それではしるしい。せっかく、朝の御祈念に、こうやって皆さん、お参りになるのですから。それが楽しい信心、しかもその、楽しい心でです。今日も、私が申しましたようなね、自我滅却といった様な、大変、考えりゃ難しいことですけれども。そういう稽古をさせて頂く。そういう素晴らしい事を、いうならば、焦点に稽古をさせて頂いておる。そすと、稽古そのものもまた、楽しゅうなってくるです。それこそ、好きこそものの上手なれです。信心が好きになってくる。そういう、私は、稽古の姿勢というものを、まず、作らせて頂いて、ただ、ここへは、まめな時に、ここへ参って信心のけいこをしておけと言われるが。ただ、参るだけでは稽古にならん。そこに、様々な工夫を凝らさせて貰うて、焦点は、例えば、只今申します様な、肉眼をおいて心眼を開かせて頂くという様な、言うなら、信心にならせて頂きますと。例えば、難儀な問題と思うておったことも、かえって、お礼が申し上げれる様な心の状態が開けてくるです。そんな難しい事がと言わずに。その気になって行くとです、日々、見やすいことからです。例えば、さきほど、御神意をお伺いさせて頂いて、御理解を頂いたら、もうその場で、自分の思いが、ずーっと取れてしまう様なおかげを、言うならば、繰り返し頂きながら、そういう間違いのない焦点を目指しての信心のけいこでなからなければならんと思うのであります。どうぞ。